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〜古梅園のあゆみ〜





始祖 松井道珍  土佐掾(一五二八〜一五九〇)
大和国十市より南都に移住して、天正五年(一五七七年)に製墨業を開始しました。当時は、日本の製墨業も未熟であったため、『延喜図書寮造墨式』・『李家製墨法』・『空海二諦坊油煙墨法』等により研究を重ね、良質墨の製法を開発しました。
その功により、〔土佐掾〕の官名を賜りました。

二世 松井道慶  和泉掾(一五七八〜一六六一年)
自宅の庭の一隅に梅の古木があり、来訪した文人や墨客が皆、その古木を賞揚したので、これを園号とし、『古梅園』の称が、これより始まりました。

三世 松井道壽  和泉掾(一六一一〜一六九七年)
徳川幕府の用達を受け、江戸に駐し、諸候邸の用命を承りました。

四世 松井道悦  和泉掾(一六四〇〜一七一一年)

五世 松井元規  越後掾(一六六〇〜一七一九年)
儒者伊藤仁斉の門をくぐり、学業を修め、東庵と号しました。

六世 松井元泰  和泉掾(一六八九〜一七四三年)
別名、玄々齋貞文。元文四年(一七三九年)、幕府の許可を受けて、長崎で清人墨家の程丹木・汪君奇等と交友を持ち、両国製墨法の技術交流を計りました。その後、『古梅園墨譜』四巻、『古梅園墨談』、『墨話』等の文献を著しました。墨譜四巻の木型絵図の中には、現在も製墨されている八角老松(八角)・寫経墨・玉蘭・大哉布袋(布袋)などが含まれています。

七世 松井元彙  和泉掾(一七一六〜一七八二年)
父元泰の命により、紅花墨を試作し、それを完成させ、『古梅園墨譜』後篇五巻を著しました。以後、『墨=古梅園』と、同一語に用いられる程、人口に膾炙されました。墨譜後篇には、五魑・竹林七賢・神仙墨・紅花墨・飲中八仙・玄之又玄など、現在も製墨されている墨が含まれています。

八世 松井元孝  和泉掾(一七五六〜一八一七年)
元孝、九世、元誼は共に〔和泉掾〕を賜り家業泰平でした。

九世 松井元誼  和泉掾(一七九九〜一八五七年)

十世 松井元長  土佐掾(一八二八〜一八六五年)
明治維新に際し、官名を奉還して、宮内庁御用達となりました。

十一世  松井元淳(一八六二〜一九三一年)
奈良市名誉市長を勤め、大正四年、営業を会社組織に改めました。

十二世  松井貞太郎(一八八四〜一九五二年)
貴族院議員、奈良市名誉市長を歴任。製墨業界に貢献しました。

十三世  松井元慎(一九一三〜一九六七年)
終戦時の激動期に際しても、よく四百年の老舗を堅守しました。

十四世 松井元祥

十五世 松井淳次

十六世 松井晶子


長い歴史を持つ古梅園ですが、現在の奈良には、製墨会社が十四軒あります。それらが技術を競い合いながら、開発を続けてきたため、奈良墨が発展したのでしょう。それぞれの時代に応じて、墨の製法変遷を成してきました。それが、日本の政治・産業・経済・文化の発達の源の一つとなったことは言うまでもありません。


掾(えん)・・・官名。地方の長官もしくは、それを補佐する者に与えられる役職。位階は、正七位下から従八位下のうちにあります。




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